フェイク・マッスル
『フェイク・マッスル』(日野 瑛太郎) 製品詳細 講談社独自の世界で勝負できる書き手だと思う。--東野圭吾 頭抜けて面白かった。--綾辻行人 まんまと作者の術中にはまった。ーー有栖川有栖 エンタメとして読ませるテンポの良さも素晴らしい。ーー辻村深月 潜入取材シリーズとなれば喜んで追っていきたいと思います。――湊かなえ あらすじ たった3ヵ月のトレーニング期間で、人気アイドル大峰颯太がボディービ …https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000394028 久しぶりにミステリー小説を読みました。本稿では「フェイク・マッスル」の感想と一部内容に触れていきます。 「フェイク・マッスル」は第70回江戸川乱歩賞の受賞作の一つです。 江戸川乱歩賞は日本推理文学界における新人作家の登竜門として広く認知されているようです。普段あまり小説を読まない私は「フェイク・マッスル」を機会に知りました。既に第71回が実施されており、その受賞作も面白そうです。 選考委員には、東野圭吾さんや湊かなえさんといった作家陣が名を連ねています。湊かなえさんの「C線上のアリア」を積読していることを思い出し、これを機に読もうと改めて思いました。 あらすじ かつて痩身であった男性アイドルが、わずか3ヶ月のトレーニングでボディビルの大会において3位という驚異的な成績を収めます。 この急激な肉体改造に「不自然だ」「偽りの筋肉だ」とSNS上の識者からドーピング疑惑が浮上します。しかし、本人はその疑惑をきっぱりと否定し、「会いに行ける」パーソナルジムをオープンします。 週刊誌の新人記者・松村は自分のキャリアの命運がかかった潜入取材を試み、疑惑の究明に挑みます。 小説の構成と読後感 本作は主に新人記者・松村の一人称視点で展開されますが、竹中という女性の視点も織り交ぜられます。 詳細な情景描写や内面描写を排した文体により、ストーリーの流れが明快で、核心となる謎解きに集中して読むことができました。読了にかかった時間は約2時間程度でした。 物語の終盤には「くぅ〜〜そういうことだったのか〜〜」と思わず唸ってしまう見事な伏線回収があり、私の推理は完全に覆されました。ただ、筋肉に明るい(?)人は、より早い段階で真相を見抜く可能性もあるかもしれません。それもまた本作の魅力の一つだと思います。 一方で、個人的な嗜好を述べるなら、焦らされるような展開や読者の緊張を高めるような心理描写がより充実していれば、さらに深い没入感を得られたのではないかと感じました。例えば、採尿計画が思うように進まず、隣で用を足すふりをしながら、大峰さんを悔しげに横目で見つめる…のような展開があったりとか。 と述べてはみましたが、そうした描写の追加は、本作の特徴である読みやすさやテンポの良さを損なう恐れがありそうです。小説創作においては常に様々な要素のバランスが求められるものですよね。 印象的な場面 大峰さんの採尿を試みる第3章は、滑稽で面白かったです。本編の中で大真面目に描写されているのも相まって、読みながら笑みが溢れてしまいました。 もし、映像化されることになれば、ショールームや排水トラップの加工検討、トイレでの作業のくだりにどうしても期待してしまうと思います。 大峰の採尿を試みる第3章は、特に印象的でした。 大真面目に描写される滑稽な状況が絶妙で、思わず笑みを誘う場面となっています。 もし本作が映像化されるならば、ショールーム見学や排水トラップの改造検討、トイレでの緊張感漂う一連の行動などに期待してしまうのは必至と思います。 映像化されてほしい…!
赤ちゃんはことばをどう学ぶのか
赤ちゃんはことばをどう学ぶのか -針生悦子 著|中公新書ラクレ|中央公論新社認知科学や発達心理学を研究する東京大学・針生先生。先生は生後6~18ヶ月くらいの子ども、いわゆる“赤ちゃん研究員”の「驚き反応」に着目し、人がどのようにことばを聞き取り、理解しているかという言語習得のプロセスを明らかにしてきました。本書はその研究の概要を紹介しながら、これまでに判明した驚くべき知見を紹介していきます。何も知らない赤ちゃんが …https://www.chuko.co.jp/laclef/2019/08/150663.html 「赤ちゃんはことばをどう学ぶのか」は、子どもはどのように言語を身に付けるのかを探る一冊です。 言語発達のプロセスを、それを示唆する実験デザインとともに解説し、大人が思う「子どもは楽々と素早く完璧に言語を習得する」というのが果たして本当なのかを問い直します。 まず、母語獲得についてどのように取り組んでいるのかを確認し、次に外国語学習についての考察を行います。 この書籍は、ゆる言語学ラジオの 赤ちゃんの言語習得 シリーズの参考文献に挙げられており、手に取りました。 私にとって特に興味深かったのは以下の3点です。 赤ちゃんの母語獲得は「楽ちん」ではない 母語以外の言語学習は「早ければ早いほど良い」とは限らない 創意工夫に富む実験デザイン 赤ちゃんの母語獲得は「楽ちん」ではない チンパンジーとの比較実験が示すように、人間の乳児はわずかな期間で語彙数を一気に伸ばしますが、その背景には「区別すべき音」と「無視すべき音」を 自力 で選り分ける膨大な計算作業があります。更に、計算作業の前のステップとして、まず音がコミュニケーションの鍵であることと音の違いが意味の違いを生むことを理解する必要があります。 たとえば [ra] /[la] を聞き分けながら、同時に話者ごとの声質や音程の差は無視する必要があります。 語彙を効率的に増やすためには、指差しを通じて「もの」と「単語」の結びつきを学ぶ必要がありますが、赤ちゃんは指差しの意図を理解することが最初はできません。ヘレン・ケラーも井戸端で “water” と水が紐づくまでは、手に綴られる文字が何を意味するのか全く理解できませんでした。 更に、アメリカの哲学者クワインが指摘したガヴァガイ問題もハードルとして立ちはだかります。「ものを示して単語が言われただけでは、その意味は定まらない」という問題です。「大人の常識」では、ものを指し示して単語を言う時は、基本レベルのカテゴリー名を言うことです。上位カテゴリでもなければ、下位カテゴリでもありません。例えば、「りんご」を指さして、「果物」と呼ぶことはありませんし、「フジ」や「ジョナゴールド」と呼ぶこともありません。この「大人の常識」を赤ちゃんは理解する必要がありますし、そもそも形容詞ではなく名詞であることも理解する必要があります。 言わずもがな、「文法」という存在を知らない状態で、赤ちゃんは「文法」を学ぶ必要があります。 言語のしくみ自体を知らない状態から独学で様々なハードルを超えていく必要があるのが母語獲得のリアルな姿です。 大人は自らが母語獲得について要した苦労のほとんど覚えていないので、「楽ちん」であると思い込んでしまうのですが、実際には非常に大変なプロセスであることがわかります。 これらの情報から「赤ちゃんがどのくらいコミュニケーションの必要性を感じるか」や「どの程度インプットがあるか」といった要素が言語発達のスピードに関わってくるのだろうと思いました。 外国語学習の科学 第二言語習得論とは何か で言及されていたインプット仮説では、アウトプットがなくともリハーサルがあれば言語は上達すると記載されており、コミュニケーションの必要性を感じていることが重要そうですが、かならずしもコミュニケーションが実際に行われているかどうかは重要ではないのかもしれません。 一方で、発音に関しては自分のアウトプットを聞き繰り返し補正していくというのが重要だと言及されています。聴覚障害を持つ方は、フィードバックループを回すことが難しいために、標準的な発音を身につけるのが難しいようです。自分の発した音を自分の耳で聞き、補正していくことが発音の上達には必要になるようです。 親ができるのは、「コミュニケーションを取らないといけない環境に連れて行く(e.g. 保育園)」ことや「子どもが見ているものの名詞を言う」「頻度高く話しかける」といったことなのかもしれません。 母語以外の言語学習は「早ければ早いほど良い」とは限らない 表面的には1人前の口を聞くようになった後も、子供の母語獲得は語彙、語り方、発音のどれもまだまだ不十分な状態です。 母語獲得でさえ3年で済むわけではないです。つまり、同じ時期にもう一つ別の新しい言語に触れさせてみたとして、その習得が早いことは期待できないようです。 実際に母語以外の言語が話されている環境で暮らし始めた場合、現地語を身に付けるまでの期間は、年齢の低い子供の方が長く、その一方で、母語を忘れていくスピードも、年齢の低い子供の方が速いことがわかっています。 言語学習は抽象的な思考が可能になった後に行う方が効率的であることが示唆されています。母語獲得のような言語という存在自体を知らない状態からの学習中に複数の言語の習得を試みるのは、非効率的である可能性が高そうです。 発音という領域に関しては、初め自分の母語では区別しない音でも聞き分けられたのに、生後12ヶ月頃までにはそのような聞き分けができなくなることが知られています。後の言語習得のためにも、例えば英語の音素の区別ができる状態を1歳時点まで維持することが望ましいように思われます。 しかし、ビデオやオーディオを通じて英語に触れさせるだけでは効果がないようです。生身の人間とのやりとりという、赤ちゃんにとって学習する意味のある環境下におく必要があるようです。日本語でコミュニケーションが取れない人が家庭にいない場合は難しいでしょう。 東京でのスタンダップコメディ活動で有名なBJ Foxさんも。子どもの英語習得を促進するために(日本語話せるけれども)英語しか喋れないと思わせるように振る舞い、英語で話す必要性がある環境を作り続けているようです。 海外に単身赴任したご家庭があるとして、たとえ学校より家庭にいる時間が長かったとしても、子どもは現地の友達とコミュニケーションするための言語を選んでいきます。 これは人類の歴史から考えると、むしろ直感的なようです。なぜなら、人類が定住をしない狩猟採集民族社会であったときに、子育てを担当していたのは狩りをする父親(そもそも誰が自分の子供かわからない状態)や常に身ごもっている母親ではなく、兄姉や近隣の子どもたちであったようです。子どもは子どもに世話をされて成長したので、子どもの言うことを聞きます。 これは、脳研究者 育つ娘の脳に驚く の「文庫版のための追記」で言及されていたことです。 能力はどのように遺伝するのか 「生まれつき」と「努力」のあいだ でも、古典的双生児法のメタ分析で分かったこととして、パーソナリティにおいて共有環境(家庭)の影響はほぼないことが示されています。つまり、パーソナリティはほぼ遺伝と非共有環境(家庭外)によって形作られます。 パーソナリティを形作るのは、人とのコミュニケーションやコミュニティであると考えられるため、その点においても整合性があると思います。 少し話が逸れましたが、もし外国語習得をさせたいのであれば、母語獲得をしっかりしてもらって、文法など抽象的な概念が分かるようになってから、英語でのコミュニケーションが必須の環境に飛び込んでもらうのが一番効率的なのかもしれないと思わされました。 そう考えると、小学校での英語教育はどのくらい費用対効果があるのか気になってはいます。 ただでさえ負荷の高い小学校の先生の負荷を増やすのに見合った成果はあるのだろうか。もし導入における根拠が臨界期仮説のみだとしたら、かなり思い切りが良い施策のように思われました。 創意工夫に富む実験デザイン 言葉を使った意思疎通ができない赤ちゃんを対象にした実験は、工夫があって非常に面白いです。 メジャーなものとして以下の2つがあるようです。 選好法:例えば、視線の長さで「複雑な図形を好む」ことを読み取る 馴化‐脱馴化法:例えば、飽きるまで緑を見せ、色を青に変えて視線が延びれば「色差が分かる」と結論づける 新生児の視力は0.01程度と言われていますが、その測定は、馴化‐脱馴化法を利用しているようです。 黒と白の縞々模様を間隔を徐々に狭めながら見せて、グレーに見え始める間隔がどの程度なのかを測っているとのことです。 首が据わっている場合には、首の向きで赤ちゃんの好みや飽きを察することができますが、首が据わっていない場合にはどうするのでしょうか。 吸啜(きゅうてつ)条件づけ という方法を利用するようです。 赤ちゃんに特別なおしゃぶりを加えてもらいます。このおしゃぶりからは何の飲み物も出てきません。しかし赤ちゃんがおしゃぶりを吸った回数やその速さを測定し、それに応じて音を流したり流すのやめたりすることができるようになっています。 非常に面白く興味深いなと思いつつ、読んでおりました。 ...
宗教を学べば経営がわかる
ベストセラー著者の初対談『宗教を学べば経営がわかる』池上彰 入山章栄 | 文春新書ベストセラー著者の初対談 博覧強記のジャーナリストと『世界標準の経営理論』の著者が初対談。キリスト教からイーロン・マスクまで。人を動かす原理に迫る。『宗教を学べば経営がわかる』池上彰 入山章栄https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166614622 三宅香帆さんとTBSの竹下さんが、1ヶ月間で読んだ書籍を紹介し合う Page Turners というyoutubeの企画があり、そこで紹介されていて知った書籍の一つです。ちなみに、この Page Turners の書籍は、Page Turnersブックリスト - Google Documents で公開されているようです。 対談形式の書籍は初めての経験でしたが、各章の冒頭に付された解説でポイントを掴み、その後の具体的な対談に進む構成は非常に読みやすく感じました。 「宗教と優れた企業経営は、本質が同じである」という主張を耳にした当初は、「本当だろうか?単に目を引くための言葉なのでは?」と懐疑的でした。実際、Page Turnersで紹介される以前に書店の面陳で見かけていたものの、手に取るには至りませんでした。読了後、この先入観が誤りであったことを痛感し、自らの浅慮を恥じ入るばかりです。 本書によれば、宗教と優れた経営の共通点は「同じ目標・信念を持つ人々が集い、その動機づけによって共に行動する」点にあります。特にVUCAの時代においては「腹落ちできる心の拠り所」がより一層求められ、それを提供することも両者の重要な共通点だと指摘されています。この視点には深い説得力を感じました。 宗教において「腹落ちできる心の拠り所」の重要性は自明視されていますが、経営学にも同様の重要性を説く「センスメイキング理論」が存在します。VUCAの時代には解釈の多義性が増大するため、「組織の解釈を統一し、納得感をもって行動し、その行動から得た解釈がさらなる納得感を生む」循環が優れた経営には不可欠だと論じられています。本書で紹介されたアルプス山脈での遭難事例やイーロン・マスクに関する考察は特に印象的で、正確性よりも納得性の重要さを心から理解できました。 中間管理職として特に響いたのは、トップが繰り返し語るパーパスやビジョンを、中間管理職が現場の言葉に翻訳して腹落ちさせる役割の重要性です。これは私に大乗仏教における「方便」を想起させました。法華経の「三車火宅の譬え」のように、抽象的な概念を理解しやすく伝える工夫が経営にも不可欠なのだと気づかされました。 また、パーパスやビジョンを明確に言語化し、多様な形で社員やステークホルダーに伝えることの価値も強調されています。入社時にビジョンに至るストーリーを動画で見た際の理解のしやすさを思い出しました。これは宗教における聖書を基にしたステンドグラスや彫刻、絵画に相当するものでしょう。仏教においても釈迦の十大弟子の一人である難陀を題材にした戯曲があったことも思い出されます。 この書籍の中核となる「優れた経営と宗教は『腹落ち』が鍵を握る」という主張は、読後に自分の中でも確かに「腹落ち」しました。 本書を通じて、経営学と宗教の共通点を軸に展開される豊富な知識の数々—両利きの経営、レッドクイーン理論、チャーチ・セクト論(legitimacyの獲得)、プロテスタンティズム(特にカルヴァン派)の資本主義への貢献、ティール組織など—に触れられたことは、知的好奇心を大いに満たしてくれました。
論破という病
論破という病 「分断の時代」の日本人の使命 -倉本圭造 著|中公新書ラクレ|中央公論新社 自分と異なる意見を持つ相手を「敵」と認定し、罵りあうだけでは何も解決しない。今必要とされているのは、「メタ正義感覚」だ――。日本に放置されているコミュニケーション不全に対し、対立する色々な立場の間を繋いで成果を出してきた〝経営コンサルタント〟の視点と、さまざまな個人との文通を通じ、社会を複眼的に見てビジョンを作ってきた〝思想家〟の視点を …https://www.chuko.co.jp/laclef/2025/02/150834.html 著者の倉本圭造さんの経歴がユニークだったために、気になり手に取った本です。 マッキンゼーでキャリアを開始し、その後は肉体労働やブラック企業勤務、カルト宗教団体への潜入、ホストクラブでドンペリを入れもらうなど、様々な経験を経て、船井総研に入社し、現在は独立しているとのことです。 「恵まれたエリート目線では見えないものを知るために(という今思うと少し浅はかな青臭い精神で)」とおっしゃっていましたが、「イシューからはじめよ」でも一次情報に触れることの重要性が語られていたように、素晴らしい姿勢だと思います。 本来であれば、専門性が高いエッセンシャルワーカー(教員や保育士、学校や病院介護施設の調理員など)の待遇はホワイトカラーよりも良くあるべきだと思っており、少し後ろめたい気持ちで日々を過ごしているだけの私とは違います。 本書の冒頭で、「メタ正義感覚」について語られています。 「メタ正義感覚」とは、相手が持つ正義と自分が持つ正義の両方を尊重することです。 足して2で割った妥協案ではなく、相手の意見の存在意義に向き合い、クリエイティブな解決策を考えることが求められます。 これは、メアリー・フォレットが提唱した「統合」に似ていると感じました。 本書には旅行の計画が例として挙げられていましたが、私は注文住宅の設計について考えました。 例えば、「全館空調にしたい」という意見があったとして、その意見の存在意義は「第一種換気を取り入れたい」であったり「室外機の数を減らして外観をスマートにしたい」かもしれません。 後者の理由でかつコストがネックで対立しているのであれば、屋根裏エアコンでも十分に叶えられる可能性があります。 本書では、メタ正義感覚を持つことが、社会課題の解決に向けた重要アプローチであると強調されています。 その後に語られる「水の世界」「油の世界」という概念と、それらを「乳化剤」によって共存させるアプローチ(マヨネーズのような形態)は、まさにメタ正義感覚の実践例として印象的でした。 IT技術の社会実装については、SIerやコンサルタントの立場にある方々がより切実に課題を感じているかもしれません。 著者によれば、日本の働き手は末端まで強い責任感を持ちすぎており、外部からの改善提案を受け入れにくい傾向があるとのこと。 このような状況に対し、著者は「水側の人が油側の人をあと3歩迎えに行く必要がある」と提案しています。 かつては「過剰にカスタマイズを求める人々が合理化を妨げている」という考えを水側の人が一方的に押し付けていましたが、最近は日本企業の事情に歩み寄り、現場のニーズに徹底的に寄り添ったユーザーインターフェースを作り込む企業が増えてきているそうです。 「一つのことをうまくやる」SaaSを組み合わせるUNIX哲学的なアプローチは、特に中堅企業において有効な選択肢になりうると感じました。 著者はまた、「ドラクエ型」と「FPS型」という興味深い概念で日本の競争力低下を説明しています。 ドラクエ型は従来の日本的競争スタイル、FPS型は新しい競争スタイルを表しており、日本が全体的に競争で後れを取っているのは、競争の形態そのものが変化したためだと指摘しています。 ドラクエ型が有効な分野ではまだ強みを発揮できているものの、ソフトウェアや家電といった分野ではFPS型への転換に遅れを取っているとのこと。 これは経営学でいう「知の深化」と「知の探索」の対比に通じるものがあります。自分自身が「ドラクエ型」の思考を持っていたことに気づき、ハッとさせられると同時に、その分析には納得感がありました。 本書は様々な社会課題に対してメタ正義感覚をどう適用していくかを具体的に示しており、読み進めるうちに概念が腹落ちしていく体験ができました。 読後は未来に対してやや希望を持てる気持ちになりました。 課題は山積していますが、議論は既に本書で言う「令和型」に移行しつつあり、地に足のついたメタ正義的な解決策を積み重ねていける兆しが見えると感じました。 本編を通して「〜な意見があり」という形で紹介される多様な意見の存在に新鮮さを覚えました。 これは私自身が似た属性の人々との交流に偏りがちで、著者のように多様な人々と接する機会が少ないからでしょう。 読書を通じて異なる視点や課題を俯瞰し、日本社会の解決策を考える機会を得られることは、ありがたいなあと感じました。 Xでいろんな意見を見ている感覚でいたのですが、実際にはフォローしている人は自分とよく似た属性の人ばかりであることに気づきました。 よく考えたら、フォローしている人以外のつぶやきを見るのは「松村北斗」「内山昂輝」「トンツカタン森本」でパブサするときだけでした。 そのベン図ある?
教員不足
教員不足/佐久間 亜紀|岩波新書 - 岩波書店 先生が確保できない。全国の学校でそんな悲鳴が絶えない。独自調査で問題の本質を追究し、教育をどう立て直すかを具体的に提言。 佐久間 亜紀 著https://www.iwanami.co.jp/book/b653997.html 教員の方々が非常に忙しいというのは、教職の友人や(教育関連サービスを提供している関係上)職場でもよく耳にすることでした。 しかし、何が原因でそのような事態となっているのか、いつ頃からなのか、その解消に向けた動きはあるのか、といった疑問をそのままにしていました。 タイトルを見た瞬間、頭の片隅にあった疑問たちが一斉に脳の中心に押し寄せ、私の手を岩波の赤い表紙が並ぶ棚へと導いたのです。 冒頭では、著者の教え子で教職についている方々のエピソードが紹介されますが、妊娠を喜べない窮状や教員不足による過度な労働など、心が痛むものばかりでした。 本書は、それが特殊なケースではなく、普遍的な現象であることを裏付ける調査結果と考察が展開されています。 そもそも「教員不足」にも複数の解釈があり、本書では4段階に分類されています。 私のように背景知識がない人がこの4段階を理解するうえでは、2つの壁があると考えます。どちらも詳細に記述されており、理解に困ることはありませんでした。 1つ目は、国が標準とする教員定数(基礎定数と加配定数)を決める仕組みである義務標準法です。「国が標準とする」という表現の通り、これがそのまま採用されるとは限らず、最終的には地方自治体が教員数(条例定数と配当定数)を決定します。 義務標準法では、必要な学級総数(通常学級と特別支援学級の担任数)を (生徒の数) / (1クラスあたりの人数) で計算します。(1クラスあたりの人数) は、現在35人学級への移行中であるため、35あるいは40人が標準となっています。これに加えて、担任を持たない教員の数を決めるために、「乗ずる数」と名付けられた係数をかけます。学級数に応じた係数が定められており、例えば、中学校の全6学級であれば、1.75倍となっています。 さらに、ここに加配定数が加わります。学校の課題に応じて措置する定数とされています。しかし、年度ごとに確保される予算であるため、加配定数を根拠に正規雇用するのが難しいという問題があるようです。 この雇用するべき教職員数の標準を雇用するための人件費の1/3が国庫負担金として自治体に交付されます。 2つ目は、教員の非正規雇用についてです。私が中学生であった2011年時点で、6人に1人は非常勤講師という状態だったとのことですが、正直生徒の立場からはその差異はよく分かっていませんでした。 実態はかなり多様ですが、大きく3つのグループに分類できます。第一のグループ「臨時的任用教員」は、任期付きではあるものの、フルタイムの常勤であるため、学級担任や部活指導も任されます。第二グループ「非常勤講師」は授業だけを担当します。しかし、2001年以降は多様化し、「常勤的非常勤」という一見矛盾した働き方が増えています。第三グループ「再任用」は、定年退職後に再び任用されるものです。 この2つについて理解すると、4段階に分けられる教員不足が理解できるようになると感じます。 第一次未配置 正規雇用教員が年度当初で既に不足している 第二次未配置 臨時的任用教員を配置したうえで不足している 第三次未配置 常勤的非常勤講師を配置したうえで不足している 第四次未配置 各学校で教員の受け持ちを増やしたり教頭先生が兼務するなどしてカバーしたうえで不足している つまり授業が行えず、自習状態になっている 驚いたのは、第四次未配置を回避するための対応として、免許外教科担当制度という特別に免許のない科目について教員が授業を行うことがあるという点です。 これはデジタル教材を活用できるのではないかと思いました。中国では、教員の監督のもとデジタル教材を視聴することで、学力の地域格差を縮小した例があったと記憶しています。 本書の中で調査に協力してくれたX県では、授業が行われないケースはなかったものの、第三次未配置の状態にあり、本来は産休などのために確保している臨任や非常勤講師を4月時点で使い切ってしまっているようです。団塊世代の退職に伴って教職員の若返りが進んだことで産休の需要は以前よりも高まっていることや、精神疾患による休職の増加を踏まえると、これは深刻な問題と言えます。現に調査では、年度末の不足は年度始めの2倍ほどになっているとのことです。 第4章から第6章では、なぜ教員不足になったのかという点についての考察がなされています。 バブル崩壊から連鎖した不景気の波は、国の財政の合理化を促進し、行財政改革による公務員の削減と義務教育費の削減が行われました。その結果、少子化へと向かう社会の中で、終身雇用を保証する正規雇用は避けられ、非正規化が進みました。教育改革によって教員の負担が増え、長時間労働化が進行しました。さらに、教員免許の更新制の導入(2022年に廃止)など、教員を減らす力学が働く政策が実施されたことが追い打ちをかけたようです。 第7章は、より教員が不足しているアメリカについての記述がありましたが、なぜアメリカで分断が進んでしまっているのかという示唆を得たように感じました。 「公立学校はセーフティネットだ」という表現がありましたが、まさにそのとおりだと思いました。 本書の最後の方でも述べられていますが、私自身も近い将来においてはIT技術が教員の代わりを務める、いわば銀の弾丸にはなり得ないと考えます。 ただ、デジタル教材をはじめとするIT技術によって、より効率的に個別最適化を進めたり、ソフトウェアが校務分掌を担うことで、子どもと向き合う時間を増やせるような、教員の方々がより健康かつやりがいをもって取り組める環境づくりの一助になれるのではないかと思いました。
科学的根拠(エビデンス)で子育て
科学的根拠(エビデンス)で子育て家庭・学校・塾・職場で「人を育てる」あなたの疑問に、最新の科学がすべて答えます!https://www.diamond.co.jp/book/9784478121092.html 教育業界に関連する事業に携わる者として、公教育で実施されている施策や民間企業が提供するサービスの背景にある根拠、そしてそれらがどのような研究や実験から導かれているのかを概観できる書籍を求めて、この本を手に取りました。 紹介されている研究は、信頼性の高いもの、そして直感に反するものが選ばれているようで、確かにどれも興味深い内容でした。 しかし、最も衝撃を受けたのは「はじめに」の部分かもしれません。教育の「成果」を測る物差しは「学力」であるという考えが、知らず知らずのうちに自分の中に染み付いていたことに気づかされました。 これは私が教育の「成果」を短期的な視点でしか見ていなかったことの表れと言えるでしょう。 (人によって幸せの定義は異なりますが)多くの日本人の人生において大きな割合を占める仕事や結婚を考えると、学力(認知能力)よりも、社会性などの非認知能力の方がより強く求められるものだと著者は指摘しています。そう考えれば、教育の「成果」の物差しは認知能力ではなく、非認知能力とする方が自然ではないでしょうか。 だからといって、認知能力が低くても良いというわけではなく、両方が重要であることが第二章で述べられています。興味深いことに、認知能力を伸ばす上でも非認知能力が鍵となるようです。非認知能力は認知能力を伸ばすことがあっても、その逆はないとのことで、早期に投資すべきは非認知能力(将来の収入と関連があるのは、忍耐力・自制心・やり抜く力)だと説明されています。第9章でも、幼児教育においては、計算や読み書きを小学校入学前に教える「基礎学力重視」の園よりも、「関心・経験重視」の園の方が質が高いという研究結果が紹介されており、これが一つの裏付けとなっています。 非認知能力を伸ばす上で「先生」が重要な役割を果たすようです。第3章で紹介されているアメリカの研究では、中学校3年生の時の先生が、生徒の高校卒業率や成績、大学進学への意欲にまで影響を与えることが示されています。 また、第9章では、デジタル教材を利用する際にも教員の役割が重要であることを示唆する中国とパキスタンでの研究が紹介されており、これからの教育においても教員は不可欠な存在であり続けるのだと感じました。 デジタル教材や学校で活用されるソフトウェアは、いかに先生とうまく連携できるか、いかに生徒と向き合える本質的な時間を確保するために校務などの時間を効率化できるかが重要なのだと思います。 デジタル教材に関しては、アダプティブラーニングの効果についても言及がありました。学力の格差を広げるのではないかという懸念もあったようですが、実際にはむしろ格差が縮小するという結果が見られているとのことです。特に算数や数学において高い効果が確認され、教員の負担軽減にもつながるという見方もされています。 この本は「エビデンスはいつも正しいのか」という章で締めくくられています。 以前読んだ認知バイアスに関する本の最終章が「認知バイアスという認知バイアス」であったことを思い出しました。 こうした自己言及的な章を最後に配置する構成は、個人的に好ましく感じます。
欧米人とはこんなに違った日本人の「体質」
『欧米人とはこんなに違った 日本人の「体質」 科学的事実が教える正しいがん・生活習慣病予防』(奥田 昌子) 製品詳細 講談社日本人には、日本人のための病気予防法がある!同じ人間でも外見や言語が違うように、人種によって「体質」も異なります。そして、体質が違えば、病気のなりやすさや発症のしかたも変わることがわかってきています。欧米人と同じ健康法を取り入れても意味がなく、むしろ逆効果ということさえあるのです。見落とされがちだった「体の人種差」の視点から、日本人が病気 …https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000194958 マウスの実験結果が必ずしも人間に適用できるわけではないということは直感的に理解できますが、人種(遺伝子)や環境(エピジェネティクス)によっても結果が異なることをご存知でしょうか。私はこの事実を知りませんでした。 欧米で確立された健康法は東アジア人にも同様に効果があると思い込んでいました。実践はしていなかったものの、地中海式ダイエットは私たち日本人にも有益だろうと考えていたのです。 しかし実際には、私たち東アジア人は(自然選択を通じて)炭水化物中心の食文化に適応した体質を獲得しているようです。それはインスリンの分泌量、胃酸の強さ、胃の構造など様々な面に表れています。 信頼性の高い論文だからといって鵜呑みにするのではなく、自分の生活に取り入れる前に「私たち東アジア人にとっても」信頼できるデータなのかを慎重に検証する必要があるでしょう。 本書で特に興味深かったのは、実験対象として日系人を活用している点です。ある疾患のかかりやすさが遺伝によるものなのか、あるいは食生活や運動習慣(またはそれらに起因するエピジェネティクス)によるものなのかを判断するために、日本人と欧米人、そして欧米の生活様式を取り入れている日系人を比較しているのです。 「糖尿病の原因=砂糖」「高血圧の原因=塩」といった単純な図式に飛びつくのではなく、そのメカニズムを理解することが重要だと学びました。必ずしも砂糖や塩を減らせば良いというわけではなく、人間の身体はそれほど単純にはできていないのです。 自分の生活に取り入れられそうな知見としては、以下のようなものが挙げられます: 青魚の摂取頻度を増やす(糖尿病、動脈硬化の予防に) 大豆製品を積極的に食べる(糖尿病、骨粗鬆症、脳梗塞の予防に) カリウムの摂取量を増やす(高血圧対策として) 飲酒量と頻度を減らす(高血圧、がんのリスク低減のため) 定期的に体を動かす(大腸がん予防、内臓脂肪蓄積による糖尿病予防のため) なお、本書を読んで最初に驚いたのは、日本人は筋トレで大きくできる白筋の割合が少ないため、いくら鍛えても基礎代謝があまり上がらないという事実でした。
インターネット文明
インターネット文明/村井 純|岩波新書 - 岩波書店 インターネットは、趣味や仕事から医療や安全保障までを包摂する文明と化した。人類史的な課題と使命を、第一人者が語る。 村井 純 著https://www.iwanami.co.jp/book/b650788.html これまでインターネットの誕生から現在に至る歴史を俯瞰したことがありませんでした。「軍事利用のためのARPANETがインターネットの始まり」という教科書的な説明以外は、詳しく理解していませんでした。インターネット(の上で提供されるサービス)で生計を立てている一人として、この本を読んでおく必要があると感じ手に取りました。 本書の主題とは少し離れるかもしれませんが、最初に私の目を引いたのは、日本のFTTH(Fiber To The Home)普及率が8割以上と他国と比較して非常に高い水準にあり、コロナ禍における上り回線の需要を支えたという事実でした。 TCP/IPが急速に広まったきっかけについての記述も興味深かったです。ベル研究所が開発・公開していたUNIXをベースに作られた4.2BSDがTCP/IPを導入したことで、世界中の大学に普及したとのこと。UNIXのライセンス料の高さがLinux開発の契機ではなかったかと一瞬思いましたが、当時はAT&Tが民営化される前であり、教育機関向けには比較的安価なライセンス料だったようです。 海底ケーブルに関する話題は私にとって全く新しい知識でした。北極海の氷が溶けることが海底ケーブル敷設に繋がるという視点は、これまで考えたこともありませんでした。 第6章については、もう少し詳細な内容が読めるとより良かったと思います。1983年に書かれた『HIGH OUTPUT MANAGEMENT』の冒頭では日本企業の強さについて言及されていましたが、なぜ現在では後れを取る結果になったのか、より深く知りたいと感じました。 本書で繰り返し言及される「周回遅れの先頭ランナー」というキーワードは印象的でした。例えば国産クラウドがそのような存在になり得るのか非常に気になっています(個人的には強く応援したいと思っています)。 一見すると本筋から外れているように思える話題もありましたが、それらがむしろ私にとっては興味深い部分であり、読んでいて楽しい体験でした。
外国語学習の科学 第二言語習得論とは何か
外国語学習の科学/白井 恭弘|岩波新書 - 岩波書店 「外国語を身につける」という現象を科学的に解明し,効率的な学習方法を探る研究の最前線を紹介する. 白井 恭弘 著https://www.iwanami.co.jp/book/b225938.html 第二言語学習、特に英語学習において、私を含む多くの学習者は、熟達者の語る経験談や直感的な方法論に注目する一方で、第二言語習得研究(SLA)をベースにした科学的なアプローチについては、その存在すら知らないことが多いのではないでしょうか。 私自身も、この書籍を読むまでは第二言語習得研究(SLA)について知りませんでした。研究の必要性は想像できたはずですが、考えが及ばなかったようです。 興味深かったのは、小学校の英語必修化の背景の一つとして臨界期仮説があったことです。臨界期といっても絶対的な線引きではなく、敏感期(Sensitive Period)として捉えられることが主流のようです。音素の認識が敏感期を迎えるのはとても早く、生後6ヶ月〜1年だそうです。発音や文法に関しては13歳ごろまでが敏感期とされています。 インプット仮説も非常に興味深いものでした。赤ちゃんが母語習得する際に急に話し出せるようになることに注目したものです。実際にアウトプットがなくともリハーサルがあれば言語能力は発達するとされています。アウトプットをしなくとも、インプット+アウトプットの必要性があれば言語習得につながるのです。インプット仮説をベースにした教授法も注目に値します。 アウトプット偏重になるのは避けた方が良いでしょう。一方で、聞き流しのような学習法はアウトプットの必要性がないため、効果は薄くなってしまう可能性があります。 第二言語習得研究(SLA)のフィルターを通して見ると、言語学習アプリはどのように評価できるでしょうか。例えば、Speakというアプリでは、インプット=インターアクションモデルを利用していることがわかります。 第二言語習得研究(SLA)の時代を知らなくても、私たちはすでに何らかの形でその恩恵を受けているのかもしれません。 この書籍は17年前に出版されたものですので、現在ではアップデートがあるかもしれないと考え、一部検証を試みましたが、根幹を覆すような新知見はなさそうでした。したがって、ここで紹介されている知識は2025年現在でも十分通用すると思われます。
結婚の社会学
『結婚の社会学』阪井 裕一郎|筑摩書房筑摩書房『結婚の社会学』の書誌情報https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076144/ 本書の冒頭で、社会学とは「社会の在り方や人間の行動を解明するために常識を疑うことである」と定義しています。 結婚にまつわるステレオタイプがどのように形成されていったか、と歴史を紐解いていくところから始まります。 江戸時代から現代にかけて、日本における「結婚」の形態はどう変化してきたのか。諸外国との比較ではどうなのか。明治時代の外交政策や技術発展が価値観にどのような影響を与えたのか、その変遷を概観できたことは非常に興味深い体験でした。仲人を介した結婚は、明治時代における武士的儒教道徳の浸透や交通手段の発達、さらに明治政府が「家」を基盤とした国家構想を持っていたことから広まったものです。一方、江戸時代の村落共同体(全体の9割を占める)での結婚プロセスでは夜這いが主流だったという事実は衝撃的でした。このように、長く伝統として根付いていると思われているものが、実は近代以降に生まれたものであることが少なくありません。また、神社で行う神前式も伝統的な印象がありますが、実際には欧化政策の中でキリスト教式を模倣して作られたもので、高度成長期に急速に普及したとのことです。 このような、歴史的に古くからあるように見えて実は比較的近代に作られた伝統や慣習は「創られた伝統(Invented Tradition)」と呼ばれています。私たちの日常にも多く潜んでいるのかもしれません。自分のステレオタイプを疑ってみると、そこには興味深い発見が隠されているかもしれないのです。 結婚が「家」同士の結びつきから「個人」同士の結びつきへと変化したのは戦後のことです。ここからようやく、私たちが馴染みのある世界に近づいてきます。 1970年代までは見合い結婚が多数派でしたが、1970年代以降は恋愛結婚が主流になりました。私の世代で考えると、祖父母の時代には恋愛結婚は少数派でしたが、両親の世代では恋愛結婚が「普通」になっていたようです。 第3章では離婚について詳しく掘り下げられています。特に印象的だったのは「足入れ婚」と呼ばれる慣習です。当時の結婚は「家の維持」が第一目的だったため、子を産めない場合、嫁は離婚されることになりました。しかし明治民法では離婚に双方の親の許可が必要となり、離婚のハードルが高くなりました。そのため結婚に慎重にならざるを得ず、嫁はまず半分入籍したような状態で過ごし、子どもを授かってから正式に結婚するという流れがあったのです。これは現在の「できちゃった婚」に近い流れがあることが非常に興味深く感じられました。 第4章では日本の結婚史から視点を広げ、諸外国における結婚と出産・子育ての分離について論じられています。諸外国で婚外子が多いという事実は知っていましたが、その背景までは理解していませんでした。そこにはパートナーシップ制度の充実があり、結婚以外の多様な共同生活形態を法的に認めていることが深く関わっていることが分かりました。 日本においても、法的に認められた共同生活が「結婚」だけで十分なのか、という問いを考えるきっかけとなりました。